昭和四十七年二月十五日 朝の御理解


X御理解第五十四節 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない」


 心配があるから信心しているという人が多いと思うんです。ことに今日もこうしてお生かしのおかげを頂いて、無事息災、一家中のものがおかげを頂いておることが有難いというお礼の心が一杯で信心を頂いている。けれども、いつどのようなことが起きて来んとも限りません。ですから障子一重がままならぬ人の身であるということが分かる程、実は不安なのです。
 いつどういうことが起きてくるか分からない。それを取越苦労というわけなのですけど、信心させて頂いて、段々信心が分からして、段々身に徳が付いてくる。と心配がないというのは、例えばどういうことが起きて参りましても、その時点でそれをおかげにして行く、それを力にして行く、そういう確信が段々強くなって参りますから、取越苦労をせんで済むようになる。
 神様にお縋りしとるから心配はないというようなのはちょっと私は危険と思うですね。もう毎日神様にお願いしよるから心配はない。そういうのが毎日信心しよる、毎日お願いさせてもらいよるけど、雨がまたは嵐になって参りましたり、して参りますと、そこに信心の動揺を来しましたり、いわゆる安心しておった心が一辺に不安の心に閉ざされてくるというのではつまりません。
 信心しよるから安心しとるというのは、本当に信心しておるとか、心を身に付けておるからとか、有難いというような信心ではないと思うですね。信心させて頂いておるからと言うてもです、確かに障子一重がままならぬ人の身でございますから、それこそどういうことが起きてくるやら分からん。
 先日から頂きますように、賽の目を払うようなもの、何が出るやら分からん。おれが私どもの日々、だから人間は不安の中に、または焦燥をしながらまあ毎日を過ごしておる。そこでその出たところを勝負として、いわゆる出たとこ勝負、そこのところを御神意または御神愛という頂き方の稽古が繰返し繰返し出てきて行くうちに、そこのところの受け方一つで、おかげになって行くという確信。起きてくることはどんなことが起きてくるか分からん。で、よくその信心しとるから何とか神様がして下さるといったような安易な考え
で安心しとるというのは、これは大変危険であります。
 信心しておっていつどういうことがあるやら分からんけれども、その時点を御取次させて頂いて、お願いをさせて頂いて、御教えを頂いて参りますと、心に安心が生まれて来る。そして願って行くところから、それがおかげの元になって行く、大きなおかげの元になって行く事実を体験させて頂くと。だから安心しておるというのであって初めて本当の安心と。そういう信心が分かって行くということが、私はもう徳を受けて行っている姿だと思うです。
 それをしかも、繰返し繰返しして行くうちに、確固たるもの。どういうことが起きてきても、そのことを信心で頂いてさえ行けば、そのことはどうにも出来ないにしても、そのことを通して必ずおかげが受けられると。ここだけは、ここは確実なものであることは分からせてもらうところから、生まれてくることから安心。
 だからそこまで分かることが、言うならば信心の徳を受けるということ。何か特別のことではなくて、信心を繰返し繰返しさせて頂いておるうちに、御取次を頂いて、お願いをさして頂いておるうちに、信心しておるから、よもやそげなことは起こるまいなんていうような安易な安心ではなくて、障子一重がままならぬ人の身であることが、いよいよ分かってくる。だから、油断も出来ん、隙も出来ん。
 そこでお礼の信心に日々撤しさせて頂いておる。障子一重がままならぬ人の身でありますから、いつどういうことが起きてくるか分かりません。けれどもそこのところが出たところ勝負である。そこを御取次を頂いてお願いをする、御教えを頂く、心が安らぐ。そしてそれをおかげにして行こうというのが、これを力にして行こう、徳にして行こうということなのです。
 私は、信心がねそういう線に沿うての信心でなければ、いわゆる徳のないうちは心配する。いつまでも、いつもいつも不安ないわゆるおかげでなからなければ、おかげと思わなければ、おかげを受けなければ、御利益ですよ、御利益を受けなければ安心がいかんといったような信心では、いつまでも徳は受けられません。
 お互い徳を受けて、そして不安のない生活を送りたい。その不安のない心というものには必ずおかげが伴うておるものである。それも繰返し繰返し稽古さして頂いてからのことである。信心をさせて頂いて分かること。本当に障子一重がままならぬ人の身であるということですから、どういうことか一分先が分からんのであり、もう目の前のことが実は分からんのである。どういうことが起きてくるか分からんのでありますから、だから不安である、心配である。信心しておるから安心しておるであるから、それは本当の安心ではない。信心させて頂いておってもいつどういうことが起こらんとも限らない。
 けれども御取次頂いてお願いをする。御教えを頂いて心が安心。そしてどういうことが起きてきても、どういう例えば難儀な問題であっても、その難儀な問題は、如何ともし難いけれども、その難儀な問題を通してです、必ずよりおかげが受けられるという信心。そこを確信させて頂くことがです、その都度都度力を受けて行くことであり、徳を受けて行
くことである。
 だから徳を受ければ心配はないということが分かるでしょう。だからそれが一切にということではないのです。それが五回よりも十回、十回よりも二十回と、そういう体験を積ませて頂くところから、信心しよるから安心ということではなくて、その出たところを信心で頂かして頂くから安心なのである。ですから信心の焦点をちょっと間違えますと、いつまで経っても安心の行く信心にはなりません。いつまで経っても力を受けて行く、徳を受けて行くことにはなりません。
 昨日も、そこの合楽食堂の中村さんがここでお届けされますのに、親戚の方に難儀な方があるから、まあ願わにゃおられん、縋らにゃおられん。ですから、あんたも一つどうでも金光様にお参りをしてからおかげ頂きなさいと。こげんおかげを頂きよるからというてお話ししたところが、そりゃあれだけ金光様にお参りよっちゃったばってんが、あげん難儀なことが起こったじゃないのというて、あるここの御信者さんのことを言われた。だからそう言われると二の句がつかれんという意味のことを言うておられます。
 成程その方のことは、成程難儀なことがあった。それこそ、普通で言うならば、目の前が真っ黒うなるようなことが起こったけれども、その後の信心によってそのことを通して、その一家がいよいよ信心になり、一家の方が力を受けて行きござるごとあるおかげになり、その後になっておることはその人たちは知りませんから、ここに毎日お参りさせて頂いて、その方達の信心を知っておるから分かりますけど、見ておらぬ者は分かりません。
 だから信心しよればただ安心だと言ったような安易な安心が、言い方から考え方から、これは大変危険です。信心しとりますから神様がどうかして下さろうと思うて安心しておりますということは、余りもの信心だということになります。出たとこ出たとこ、本当に有難い勿体ないで受けて行けれる信心を、稽古を日々真剣にやらして頂いて、ですから、その辺を通して、もうこれは絶対とでも申しますように、例えば信心しとっても難儀は起こってくる。けどそこのところが大事にして行く、信心さしてもらえる、そのことが次のおかげの元になると私が申します。これは絶対です。これはもう大地を叩く程真に間違いのないこと。
 だからそこのところの頂けて行く信心を目指さなければいけんのです。おかげを頂くために信心を目指すではなくてね、どのような場合であっても、その時点から、そのことが却っておかげの元になって、言うならば難はみかげと信ぜられる信心を身に付けて行かなければいけん。それを繰返し繰返し頂いて行くのです。まあ信心しよるけん、御取次お願いしとるけん安心しとりますという信心ではいけません。
 徳のない間は心配する、身に徳を受ければ心配はない。身に徳を受けて行く信心、それはその時点その時点をです、大事にして行くということ。またはそこを大事にして行けれる稽古をしとかにゃ。まあ繰返し申しますけど、そこが一番不安のない生活が出来る。身に徳を受ける、力を受けて行けれる、力を、信心を今日は聞いて頂いとるわけですね。

 昨日お道の新聞が参りました。金光教徒という新聞です。それに光橋先生がこの頃からラジオでお話しを致しましたことがですことがずーっと続いて出てくる。この半分のところでしょうか。それが新聞に掲載されております。
 合楽教会の光橋之男と、それをね「成り行きを大切に」という講題を以てお話ししておるわけです。それを今日のところを頂かせてもろうて、今私が申しましたことがぴったりしておる。光橋先生の信心なのです。またそれが光橋先生のものであり、皆さんがご承知の通りです。自分のものにしてあるところに光橋先生の値打ちがある。素晴らしさがある。成程身に徳を受けて行きござる。このまま成長して行けば、いよいよ神様も安心だろうと思われるような信心ぶりですね。みなさんご承知の通りです。読んでみましょう、少しですから。
 「成り行きを大切に、御教えを頂いて」とある。
 『私はこの金光教にご縁を頂き、素晴らしい親先生に巡り合わせ て頂きましたことを、この上もなく有難い勿体ないことだと思っ ております。毎日毎日親先生の御理解を通して、教祖様の御教え を頂き、日に日に新たな親先生のお祈りの中に生かされて育てら れていることの有難さ、親先生の御取次を頂いて信心生活をさせ て頂いておりますので、不安もなければ心配もない日々を送らせ て頂いております。
  けれども初めからそうではありませんでした。私ども人間は誰 しも我情我欲の塊みたいなものです。私の信心に入るまでは、人 を責めたり、憎んだり、些細なことに腹が立ったり、悲しんだり 心配をしたりする心が一杯でしたけれども、そのところを一つ一 つ、親先生に御取次を願って、御理解を頂き、神様にお縋りしお 願いしておるうちに、不安も心配もなくなり、人を責めたり、憎 んだりすることも少なくなってきました。御教えを頂き、大きく 豊かな成長のおかげを頂いているのでございます。
  親先生はいつも成り行きを大切に、信心の真をはっきりしてお くと教えて下さいます。真とはわが心が神に向かって行く、信で あり、真であります。信とは真であり、一心の真を捧げての信心 から、信は自ずと生まれてきます。わが心が一歩一歩上に向かっ て行き、神心になって行くような信心でなければ、真の信心でな く、わが心が一歩一歩神様に近付くのは、真心より他にありませ ん』

  「神に向かう心」
  『真の信心とは、私どもの上に起こってくる、あらゆる事柄を 神様が私どもに受けさせて頂く修行と受けさせて頂いて、その修 行に撤して自分の心を大きく豊かにして行くことであると思いま す。自然の働きを神様の働きとして、成り行きを大切に、一切合 財を神様のご都合と頂き、難儀な問題を通して神様の御心を分か り、信心の稽古をさして頂いておるうちに、大きなおかげに展開 していって、立ち行くことになってきます』 


  「信心の成長」
  『色々な問題を神様の思召しとして頂けるようになって参りま すと、そこに神様の限りない御慈愛を感じて、有難い心になり、 お礼を申し上げねばならないようになります。けれど最初から有 難く頂けないのでございます。一つのことは有難く頂けても、次 の問題は有難く頂けません。しかし御取次を頂き、親先生の御理 解を頂き、神様にお願いし、信心の稽古をさせて頂いているうち に信心が成長して、物事の受け取り方が違ってきます。親先生の おかげで金光教教祖の御教えを有難さ素晴らしさを分からせて頂 きます。親先生は毎日毎日、二十年間この教典をお説き下さいま すが、まだ説き明かせない深く広く偉大なことであろうかと言わ れます。御教えの中に天地のことは人の目を以て、知りて知り難 きものぞ、恐るべし恐るべしとありますが、親先生はまた有難し 有難しと教えられます』

  「信心の稽古」
  『御教えに、今月今日で一心に頼めばおかげは和賀心にあり。 また、真に有難しと思う心、すぐにみかげのはじめなりとありますが、一切合切の問題を神様の思召しとして頂き、和賀心すなわ ち和らぎ喜ぶ心を以て、誠に、真に有難しと思う心になればすぐ におかげになると御教え下さっております。病気も人間関係も、 財の問題も一切、神様が私に立ち行く力を都合というところまで 頂けます。けれどもそれを真に有難しとなかなか頂けません。そ こにも信心の稽古がいると思います』
 これから続く度々に出てくるわけでしょう。素晴らしいでしょうお話は。
 私は金光様の御信心は、合楽に御神縁を頂いたら、ここまでは皆さんが頂かにゃいかんです。それはね一番最後に結んであるところに有難くは頂けなくても、これが神様のご都合だ。神様の御慈愛の現れだとだけは分かる。その場で有難くは頂けんけれどもというわけなのです。
 今日私が前半に申しましたように、いかにも光橋先生が出たところを御取次を頂いて、御理解を頂いて神様の御心を分からせて頂いて、一段一段おかげを頂いていっておるということが分かります。最後に人間関係のことでも、財の問題であろうが、病気の問題であろうがと言っております。もう光橋先生本当におかげ頂いとるですね。もう自分でも言っておりますがね、「もう神様のお働きには恐れ入ってしまう」と。
 例えて経済の問題でも、収入源というものは、現在の久留米の光橋にはないのですけど、毎日お参りさせて頂いて、やはり毎日千円近くのお供えの出来るのはこれはもう不思議で不思議でたまらんと自分でも言っております。もう本当にですね、私どもが観念のお供えをする。例えば私は給料取りで幾らかしか入って来んのだから、といったようなことを観念の中に置いているから、おかげ頂かれんとです。自分は商売をしとらん。賃仕事もしとらん。けれどもこれだけは毎日毎日間違いがない。
 なら、健康の上においてもそうです。特にこの人間関係においては、実に鮮やかにおか
げを受けておりますよね。だからそのことがです、初めからそうでなかったけれども、御取次を頂いて行くうちにです、段々おかげが頂けるようになったと言っております。ですから、大体はここまではね合楽信心で一つおかげを頂いておかねば、信心しておるから安心しておるわけではない、信心しておってもどういうことが起こってくるか分からん。
 例えば昨日中村さんが、今日御理解頂いておったら、その方に説明が出来ておっただろう。信心しとるけん雨が降らんとか風が吹かんということはないよと。それはどげなことが起きてくるか分からんて、信心しとって。けどその時点を御取次を願ってお届けをして、御神意と分からしてもろうて、信心させて頂いておると大きなおかげの元になることだけは間違いないばいと説明が出来るだろうとこう思う。
 例えばこれが光橋先生であったら、もっと素晴らしいその辺の説明が出来ただろう。身を以て日々体験して行きよることだから。
 徳のない間は心配する、神徳を受ければ心配がない。神徳は受けてしもうた、これが神徳じゃというものはありません。只今私が申しましたように、信心しておるから安心だといったように、安易な考え方でなくて、信心しておっても出たとこ勝負。そこんところの時点を大事にして行く。いわゆる成り行きを大事にして行くということ。そして神意を分かる。御神愛を感じる。そういう生き方で行けば、そのことが必ずおかげの元になるということだけは、それこそ大地を叩く程間違いのないということ。
 だからそれを繰返しとるうちに、どういうことが起こってきても、御取次を頂いてお願いをして行けばそれがおかげになるのだ、お徳になるのだ、力になるのだと思うから有難いのです。だから安心なんです。だから徳を身に受けて行けばいよいよ成程心配はないというところまで進んで行けれるわけであります。
 だからね、何年信心しとるから頂けるというものじゃありません。そこに信心の焦点を置いての信心、そこにおかげを頂いておるから、自分の思うようにおかげを頂いて行くということでなくて、それは先のことは開けてみなけりゃ分からん。障子一重がままならぬ人の身であるから、けれども出たところそこんところをです、御取次を頂いて願いをするということによってです、それが徳になって行く、力になって行くということだけは絶対のもの。
 そこには人間関係の上にも、心配はない、経済上にも不安はない、例えよし病気を致しましても、健康のことについてでも 、有難 いということになって来る。一切合切を有難く頂いて行くことにならなければ馬鹿らしいというのが、現在の光橋先生の信心じゃなかろうかと思う。
 だから折角信心させて頂くのですから、そこまではお互いが、ここで信心の稽古をさせて頂くならばむつかしいことはない、容易に頂いて行けると私は思う。それに何時まで経っても経済のことが心配でたまらん。人間関係では腹が立ち通し、イライラする。さあ健康といえば、すぐ医者が薬だと言わねばならんことでは、何時まで経ってもいわゆる心配はないという生活には入って行かれませんですね。どうぞ。